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2006年1月13日 (金)

感劇話その12 苦しすぎるよ〜。

 新春浅草歌舞伎を観てきた。相変わらずの賑わいぶりを見せる雷門を抜けて、浅草公会堂へと向かう。亀治郎のお年玉(年始のご挨拶)に続いて、『仮名手本忠臣蔵』の五段目と六段目、そして、踊りが中心の『蜘蛛絲梓弦(くものいとあずさのゆみはり)』という演目。『蜘蛛絲......』は、女郎蜘蛛の精を演じる亀治郎の踊りの巧さと鮮やかな早変わりの六変化にすっかり引きつけられた。「一度も観たことないけど、スーパー歌舞伎のエンターテインメント性って、きっとこういうものなのかねえ〜」と、一緒にいた友人で編集者のMMさんと思わず拍手。知っている人も多いと思うけど、亀治郎は市川猿之助の甥にあたり、猿之助のスーパー歌舞伎にもたびたび出ているからね。

 『仮名手本忠臣蔵』は文楽でも観ているが、なにしろかなり長い話(全部で十一段)なので、たいていそのうちの主な段を抜粋して上演することが多く、観たことがあるのは四段目『判官切腹』とか七段目の『祇園一力茶屋の段』、九段目の『山科閑居の段』など。だから今回の五段目、六段目は初めて。ここは主に早野勘平の悲劇を描いたお話だ。勘平は舅を殺したと思い込んで切腹するが、今はの際に無実と判明し、仇討ちの連判状に名を連ねることを許されるという、またまた不条理なストーリー。で、またまた切腹から絶命までが長かった。

 文楽も歌舞伎もそうだけど、切腹するシーンはぐさっと刺してすぐに死んでしまうわけじゃなくて、そこからみんな、悶絶しながらいろいろと重大な秘密や真実を打ち明けたり遺言を話したり、というシーンがひとしきり続いて絶命する。それが15分とか20分とか続くんです。これは観ている側にとっても、けっこう苦しいと私なんかは思うのだが、こういうシーンが多いということは、江戸時代にそれがかなりの見せ場として大衆の支持を得たからなんだろうかなあ。お芝居とわかっていても、なんかきつくてじっと見続けることができない自分がいる。

 今日も、勘平演じる勘太郎、刀がお腹に刺さったままホントに苦しみながら虫の息でいろんなことをしゃべって、身の潔白が明らかにされたらそこからさらにググっと腹を一文字にかっさばき、はらわたを出してその血で血判状に署名、なんてグロすぎる......そうして最後にはほっと喜びつつ、自ら喉を掻き切って絶命......しんどすぎませんかー? なにもここまでしなくても......早く介錯してあげてよ〜、と思ってしまう。子供が死ぬ場面では不条理でデフォルメとわかっていてもつい涙が出てしまうのだが、こういう大人の切腹シーンでは、さらに演出が過剰すぎる気がして、悲惨な気持ちにはなっても涙は出てこない私。でも、たしかに役者は熱演ではあるんだけどね......。

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