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2005年12月30日 (金)

感劇話その9 おみつは本当に聖女か

 文楽12月公演もあっという間に終わった。今回は、本公演を1回と鑑賞教室を2回、合計3回国立劇場へ足を運んだ。鑑賞教室では去年に比べて制服姿の高校生がやたら多かったのにびっくり。最近は学校単位で鑑賞に来るところも多いのだそうだ。その鑑賞教室での演目は、『新版歌祭文』の野崎村の段だった。若い男女の純愛が三角関係になってやがて悲劇が訪れるという内容。年齢は確かにいまの高校生と近い人の話なのかもしれないが、200年以上も前の時代の話、いまの同世代よりずっと精神的には大人の世界、ではある。お染と久松、そしてお光の気持ちは現代の10代にはどんなふうに映るんだろうか、なんて考えながら観ていた。

 今年は本公演、地方公演、自主公演などを含めて約9回公演に足を運んだ。1回の公演がたいてい二部〜三部構成になっているとして(昼夜通して観るということはほとんどなく、たいてい分けて観るので)、最低でも16回以上は劇場に通ったということになる。そして、考えてみると、今年いちばん多く見た演目が、この野崎村の段であった。10月の地方公演で1回と、今回の鑑賞教室で2回。鑑賞教室は同じ演目でも日によってAプロBプロがあり配役が違ったので、3回それぞれ違う大夫と三味線、人形遣いで観ることができ、それはそれでおもしろかった。やはり同じ演目でも人が違うと味わいが微妙に変わってくるものだ。文楽歴4年弱の私ごときでも、ベテランさんが遣う人形の動きはやっぱり無駄がなく、自然でなめらかだなあと感じるのである。

 さて、野崎村の段のあらすじを超簡単にいうと、油屋の一人娘お染と丁稚の久松の二人が心中を覚悟するほど深く愛し合っている現実をつきつけられたお光(久松の郷里の許嫁)が、結婚の夢破れて潔く尼になる、という話だ。祝言用の綿帽子と白無垢姿で現れたお光が、綿帽子を脱ぐと、すでにその下には尼の装束になっている。「嬉しかったはたった半時」と、自分の結婚の夢のはかなさを嘆きつつ、お染と久松を心中させずに結びつけたい一心で、自ら身を引いたお光。そんなけなげでいじらしいお光の心がみどころのようで、こないだ一緒に行った編集者のHちゃん(30そこそこ)も、「お光がかわいそうで、もう泣けちゃいました〜」と感動していた。

 解説書なんかにも、お光のけなげな心にみんな胸うたれる、というようなことを書いている。う〜ん、でも、本当にそうなんだろうかと、素直じゃない私は考えてしまう。仮にお光が身を引いたおかげでお染と久松が晴れて結婚できたとしても、二人はそれで本当に幸せになれるのか。お光という若い一人の女性の運命を大きく変えてしまった、その大きな犠牲の上に成立するシアワセなんて、あるんだろうか。二人がふつーの神経の持ち主であれば、たとえ結婚できたとしても、その後の人生、尼になったお光のことを思い出すたびに後ろめたい思いがするのではないだろうか。とてもノーテンキにラブラブな生活をエンジョイする気分にはなれないはず、だ。だとしたら、尼になったことはお光にとって、二人に対して自分ができる最大の復讐なのではなかろうか。表向きにはいじらしさを装って、二人に幸せになってほしいといいつつ、心の中には復讐の炎がメラメラと燃えていて......生温い制裁じゃなく、ずっとずっと延々と二人を苦しめ続けることができる報復措置はないかと考えて、尼になったのだ。もしそうだとしたら、お光は高潔な聖女なんかではなく、黒革の手帳もびっくりのしたたかな堂々たる悪女なのである。

 日頃はごく素直な解釈をするワタシなのに、この野崎村のお光だけは、なんとなく若いHちゃんのようには素直に感動して泣けない。それってやっぱり性格がひねくれているから、なんだろうか。それともそれは歳のせい? (この話の続きとしては、最終的にはお染と久松は心中し、お光の献身的な行動も無駄になってしまうのだが。)

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